二度目の慈照ハイツ
2015.2.6
15年前、介護保険制度が始まった年に隣の特養から慈照ハイツに異動となった。30年前に就職してから主に知的障がい者福祉の分野で過ごしていた私が、デイサービスと特養で3年を経たばかりのときだった。高齢者福祉施設の施設長をやれとは正に緊張の異動だった。
当時の私は38歳。初めての軽費老人ホームで、初めての施設長職として、それなりの知識と経験から利用者の生活支援に取り組んだ。古くなった設備の修繕に予算を割き、行事の出し物を快く引き受け、自ら歌声サークルを開催した。いわゆる見栄えのする仕事を少しはした。しかしそのとき、おそらく高齢者の自由な生き方に寄り添うということの本質はわかってはいなかったと思う。
1年半で保育園に異動となり、それから知的障がい者福祉、特養を巡った。そして一昨年に二度目の慈照ハイツ勤務となり、再び高齢者の自由な生き方に寄り添うというしごとに取り組むこととなった。
私の母は22年前57歳で逝き、昨年の2月に89歳で父が逝った。私はそれなりの時間を生き、それなりに職業経験を積み、まもなく53歳になる。が、気が付くと壁紙を張り替え、スプリンクラーを設置し、時に仮装して跳ねまわる。
今日は節分。職員に今回が最後だとつぶやきながら青鬼となって練り歩く。一度目と同じではないか・・・。でも、利用者の楽しそうな顔を見て、人の自由な生き方に寄り添う時間軸みたいなものを少しは感じられるようになったのかもしれないと思った。
施設長 松原 隆行