五輪旗の遠い記憶

2016.8.4

この文章が掲載されている頃は、正にリオ五輪期間中で、連日日本選手の活躍が話題になっていることでしょう。
話は、今から44年前。ご覧になっている大半の方々の「札幌冬季オリンピック」の記憶は、ジャンプの「日の丸飛行隊」を思い出す方も多いかも知れませんね。そもそも、そんな記憶すら無い方が多いのかも・・・それは、1972年2月3日の開会式のことです。
当時、私はアルバイト学生として真駒内の選手村に1月中旬から2月下旬まで村運営本部受付係として、主に35か国選手団のIDカードの管理や出入国の記録の管理を行なうため、深夜に村と千歳空港を何度か往復することもありました。
開会式の当日は、朝から、特に選手団の皆さんのテンションは上がり、入場行進用の最新の色彩鮮やかなファッションに着替えていることもあり、あちらこちらで違う国の選手間同士での記念撮影が始まり、歓声や笑い声で村全体がお祭り気分になっていました。
各国の選手団は、開会式の行なわれる屋外競技場までを、選手村から入場行進順にギリシャ選手団から出発し、最後尾の日本選手団も、鈴木恵一旗手を先頭に誇らしく行進して往きました。

一瞬にして静寂になり、中央広場の各国国旗のポールにロープが当たるカアーン、カアーンという金属音に村全体が包まれ、職員は、当然、暇になりロビーのTVの前へ、それも当然、開会式の観戦のためにです。
始まりました・・・選手団の入場行進、聖火の入場、昭和天皇の開会宣言、子供達と風船の入場、ついにラストプログラム、鈴木選手の選手宣誓、その時「アッー!」という声が数人の職員から上がりました。
しかし、その中継画面に映っている出来事を、誰も口にする者はおりませんでした。
信じられないことに、鈴木選手の後ろにある「五輪旗」が普段見慣れているものとは明らかに違和感があり、上が2つ輪、下が3つ輪・・・「五輪旗」が逆さまになっていました。
その後、不思議なことにこの話題は、職員間をはじめ、当日の夕刊やTVでも一切触れられず、翌日になっても同様で、IOCからも また、全世界にも中継していたはずですが、一切の報道もなかった様でした。
オリンピックが開催される度に、私も札幌市も同じように青春であった、遠い記憶の話です。


施設長 中井 雅晴

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