「平成」の幕があき・・・そして
「へいせいであります。」・・・テレビからの声。不安な思いを抱きながらも比較的冷静に受けとめることが出来、その「平成」は、粛々と幕を開けた。
私は当時、「国民体育大会」の札幌市の開催に向けた業務をしており、開閉会式を始め6競技が行なわれるため、事務局員として競技別ポスター、ビル・商業施設の垂れ幕や、観戦ガイドブック・関連ユニホーム等のデザインを制作するため広告代理店や印刷会社等との調整を行っていた。
全ての制作物には、過去からの慣習として、昭和64年の64を冠とする「64はまなす国体」と標記していた。(次の福岡県からは、西暦での総称で「90△○国体」と呼ばれるようになった。)
「64」から「元年」に変更発注するため、その日から、各制作業者との打合わせや補正予算案の編成のため、数日間泊まり込んだ。徹夜から始まった「平成」は、すでに30年が過ぎ半年後には、幕を閉じようとしている。
一方、「平成」を振り返えると、火山噴火による大火砕流から始まり、その後、何度となく自然災害の恐ろしさをテレビ・新聞等で疑似体験をした。ついには、数ヶ月前、自身が被災者として、恐怖・不安・混乱を現実に体験をすることになった。 列島を襲った「豪雨災害」・「猛烈な台風」・「火山の噴火」・「猛暑」・「震度7の地震」等と記録にも記憶にも残ってしまった。このような「平成」を、平安末期の各種気象災害の活動期と重なっていると、ある気象予報士がテレビで解説していた。
では、もう一方の地下では?・・・今年の1月、ある新聞によると「地震活性期の大変動期は、詳しい文字記録に残っているものとして6回あったとされる。貞観期(9~12世紀)、慶長期(16~17世紀)、元禄・宝永期(18世紀)、安政期(19世紀)、大正・昭和・平成期(20~21世紀)である」と掲載。 その中の貞観期(平安末期)には、新潟・兵庫・東北・奈良・熊本・南関東・島根・京都(南海トラフ?)と大地震が37年間の間に8度も発生したと言われている。平安末期(1185年、平家滅亡の頃)の文字記録の一つとして、京都で起きた被災状況をリアルに描いた、鴨長明の「方丈記」があり、それによると「巨大地震があった。・・・この世のものとは思えなかった。山崩れが起きて土砂があちらこちらを埋め、海が傾いたかのように津波が押し寄せ、大地からは水が噴き出し~都では、寺のお堂もあらゆる建物は、何一つとして無傷なものはない。崩れ、ひっくり返った建物からの塵や灰が、止むこともなく何日も煙のように空を覆った。・・・最大級に恐ろしいものは、やはり地震だと痛感した。・・・余震は、ふだんなら驚くほどの規模のものが、二、三十回あり、揺れない日はなく、たぶん三ヶ月間は続いた。」と表現した。また、このような都・洛中の惨状をモチーフにし、下人と死体の髪の毛を抜き売払う老婆との物語で知っている、芥川竜之介の「羅生門」の中でも「ここ二、三年京都には、地震とか飢餓とかが起こった。・・・洛中のさびれ方はひととおりではない。・・・引取り手のない死人を羅生門へ持ってきて捨て・・カラスが集まって」と、800年前の京都である。
さらに長明は「水・火・風の災害は、日常的に人々を苦しめてきた。しかし、大地は、普段どっしりと安定して、異変を起こすこともなく、だから、人々は地震に対する警戒心が乏しくなる。・・・地震直後のしばらくは、天災に対していかに人間が無力であるかを語り合い、月日が経つと、震災から得た無常の体験など忘れ、話題に取り上げる人さえいなくなった。」と地震への心得と「無常の体験」を忘れてはならないと戒めている。施設も、今回の震災により停電、断水、食材流通の停滞による給食の混乱などの災害被害を受け、今後、これらの経験をどのように活かしていくか、備えの大切さと機敏な判断と決断力の重要性があらためて、いかに大切であるか再認識させられた。
「ねーねー施設長、この間の地震ではさあ-、ボイラーは動かず、暗い中で水も出なかったけど、もう雪も積もってるし凍ごえるよね、どこで、どうやって生活するの?月寒活断層も真下にあるよね。札幌市の予想では、凍死者は6,100人といっているけど」・・・「えーと・・・石油ストーブ、発電機、ダンボール、毛布・・・あと、うーん」
「ボーっと生きてんじゃねーよ!!」・・・
あとがき
私的な業務連絡です。「浜○施設長、あの日、コッペパンとクリームシチューの差し入れありがとうございました。飢えずに、お腹も心も暖まりました。~入居者一同より~」